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明智光秀の生涯



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JR亀岡駅近くの南郷公園の明智光秀

謎だらけの明智光秀

明智光秀のはっきりした生まれた年は不明です。生まれた地も不明です。現在の所、諸説はありますが推定の域を越えていません。
但し、生まれた年は享禄元年(1528年)説と永正13年(1516年)説、および天文3年(1534年)説が一般的のようです。

生まれた地は美濃国岐阜県南部)あたりで生まれたという説が有力視されています。他には近江説など6箇所の説があります。

この様に明智光秀についての信頼性の高い史料があまり残されていないので以下、「説」としてお伝えしていきます。
ご了承の上、お読み頂ければ幸いです。

青年期

光秀は斎藤道三に仕えていましたが弘治2年(1556年)の道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされています。その後、越前国朝倉義景に10年間仕えたとも言われています。

光秀、足利義昭織田信長両方の家臣になる

その頃、義昭は各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。
織田信長に対しては細川藤孝を使者に送りました。信長は了承しました。しかし、当時は斎藤家の治めていた美濃国の平定前でした。そこで足利義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田家と斎藤家に和睦を結ばせましたが信長が、およそ4ヶ月後の8月29日(1566年9月12日)、斎藤家に対し出兵し和睦は破棄されました。

そうして足利義昭織田信長に不信を募らせました。義昭は信長をいったん見切りましたが更に各地に援助を求めました。
朝倉義景にも援助を求めたことから明智光秀は義昭と接触を持つようになりました。しかし、義昭が義景に上洛を期待しても動きません。
それを見て光秀は「義景は頼りにならないが信長は頼り甲斐がある男です」と信長に頼ることを勧めます。
そこで義昭は斎藤家から美濃を奪い取った信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍に就任できるよう要請することにしました。要請の使者は再び細川藤孝でしたが、前回の破綻を踏まえて今回は信長への仲介者に光秀が選ばれました。

その後、光秀は義昭と信長の両方に属する家臣となります。

光秀、大活躍の末に大出世

永禄11年9月26日(1568年10月16日)義昭は信長の援助もあり、上洛を果たしました。

しかし、永禄12年10月義昭と信長が意見の相違で衝突。信長は突如として岐阜に戻ってしまいました。

永禄13年正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告。義昭は承諾の黒印を袖に押し信長に返しました。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静蘭のために信長が上洛するので、共に上洛せよ」
との触れが全国の大名に出されました。

同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷から天下静蘭執行権を与えられました。

元亀元年4月28日(1570年6月1日)明智光秀金ヶ崎の戦い浅井長政の裏切りで信長が危機に陥り撤退する際に池田勝正の隊3000人を主力に秀吉と共に殿(しんがり)を努めて防戦に成功しました。
2日後の同年4月30日(1570年6月3日)には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日に帰京しました。
またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現在の京都市南区久世)を与えられています。

同年9月の志賀の陣にも参戦。兵力は300人から400人と多くありませんでしたが、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当しました。

元亀2年(1571年)には三好三人衆が四国から攻め上がりました。同時に石山本願寺が挙兵。光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣しました。

同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡 約5万石)を与えられています。
これを機に織田家の家臣に編入されたと見られていますが、元亀3年(1572年)4月時点で、まだ義昭方とする史料もあるので定かではないようです。

滋賀郡を与えられた光秀は間もなく坂本城の築城にとりかかりました。

元亀4年(1573年)2月 突如、義昭が織田家に対して挙兵。
光秀は信長の直臣として参戦。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を勧めましたが成立寸前で松永久秀の妨害で破綻します。

更に同年7月にも義昭が槇島城で挙兵。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。

同年、坂本城が完成し、光秀は居城としました。

丹波攻略

明智光秀天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い越前一向一揆殲滅戦に参加しました。
そして丹波国の攻略を任されます。

丹波国は山続きで、山と山の間に人々が割拠して居住し、極めて治めにくい地域でした。
また、丹波国の人々は親義昭派で、以前は信長に従っていましたが義昭追放で敵に転じていました。

光秀はまず黒井城を包囲しましたが八上城主の波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走しています。

天正4年(1576年)4月には石山本願寺との天王寺の戦いに出陣しますが同年5月5日に逆襲を受け司令官が戦死。光秀自身も天王寺砦を攻められ、危ういところを信長の援護で助かっています。

過労で倒れしばらく療養。

同年11月7日(1576年11月27日)、正室の熈子(ひろこ)が坂本城で病死。

天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍。

同年10月には信貴山城の戦いに参加して城を落とします。

同年同月、丹波攻めを再開しますが長期戦になります。
まず、丹波国の亀山を落とし拠点にしました。そして、強敵の八上城を包囲し続けながら丹波各地を攻めます。こうして各地、転戦を往復しながら丹波攻略を進めました。

天正6年4月29日(1578年6月4日)には毛利攻めを行う秀吉の援軍として播磨国へ派遣されます。

ついに丹波国平定

天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入ります。
同年2月に包囲を続けていた八上城がついに落城。

天正7年8月9日(1579年8月30日)最後に黒井城を落とし、ついに丹波国を平定しました。
丹波を平定するとすぐに細川藤孝と協力して丹後国も平定しました。

信長は光秀を褒め称え、感状を出しました。この功績で天正8年(1580年)丹波一国(29万石)を与えられました。これで光秀は合計34万石を領することになりました。
さらに南山城をも与えられています。

光秀は亀山城と周山城を築城。
また、横山城を修築して福智山城に改名。
更に黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れました。
これらの光秀の采配に対し、信長は「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と光秀を絶賛しました。

光秀、240万石に

また、丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国筒井順慶 等の近畿地方織田家大名が光秀の与力(寄騎)として配属されました。
これにより、光秀の支配する丹波、滋賀郡、南山城を含めた近江から山陰へ向けた機内方面軍が成立しました。

光秀の石高は支配下領と与力領を合わせると240万石ほどになりました。

丹波平定から本能寺の変まで

天正9年(1581年)6月2日(1581年7月2日)織田家には今まで無かった軍法を光秀が家法として定めました。この『明智家法』の後書きに

「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」

という信長への感謝を記しました。

天正9年8月7・8日(1581年9月4・5日)光秀の実の妹か義理の妹かは定かではないありませんが、妹の「御ツマキ」が死去。「御ツマキ」は信長お気に入りの側室でした。

天正9年12月4日(1581年12月29日)『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者は即、成敗・自害を命じています。

天正10年3月5日(1582年3月28日)武田家との最終戦甲州征伐に信長に従軍。4月21日に帰還。

本能寺の変
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谷性寺※光秀寺とも呼ばれる(京都府亀岡市宮前町猪倉)光秀が本能寺の変を決意した後、誓願をたてたという。

天正10年(1582年)5月 明智光秀は当時、徳川家康の餐応役でしたが、任務を解かれ羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられます。

同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣。その途中の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意思を告げたとされています。

軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容と軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったそうです。

『本城惣右衛門覚書』によると、雑兵は信長討伐を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていました。

光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺の平定を急襲して包囲しました。

光秀軍13,000人に対し、信長は近習の100人足らずに守られていました。
信長は奮戦しましたが、やがて寺に火を放ち自害したとされています。しかし、信長本人の死体は発見されませんでした。

その後、光秀は二条御所にいた信長の嫡男の信忠と従兄弟の斎藤利治、応援に駆けつけた村井貞勝と息子の村井貞也、村井清次や信長の馬廻り達を討ち取りました。

また、津田信澄(信長の弟)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ神戸信孝らに討たれました。

本能寺の変の直後

明智光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行いました。

更に信長の本拠である安土城と近江を抑えようとします。

天正6月4日(1582年6月23日)までに近江をほぼ平定。

同年6月5日には安土城に入り、信長貯蔵の財宝を強奪して、自分の家臣や味方に与えるなどしました。

同年6月7日には誠仁親王吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せました。
京都市中が騒動したことと思われます。
この時のことを兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と「謀反」と記しています。
光秀はこの後、同年6月8日に安土を出発し次の日には宮中に参内しました。この時、朝廷に銀500枚を献上し、京都五山大徳寺にも銀を100枚づつ献納しました。更に勅使にも銀50枚を贈ったとされています。

光秀は丹後の細川家にも遣いをおくります。
しかし、光秀の与力で婚姻関係にもある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示し、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを伝え、更に光秀の娘で忠興の正室の珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶しました。

同じく与力の大和一国を支配する筒井順慶豊臣秀吉側に味方しました。
但し、筒井家は秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していました。
筒井順慶が秀吉側についたことについてフロイスの『日本史』では、摂津衆と呼ばれる高山右近らを秀吉は光秀より先に押さえました。このことが大きく影響していると指摘しています。

山崎の戦い

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谷性寺※光秀寺ともよばれています(京都府亀岡市宮前町猪倉)の「光秀公首塚

羽柴秀吉軍は本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返しました。

そして本能寺の変から11日後の天正10年6月13日(1582年7月2日)、山崎(現在の京都府大山崎町大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える前の明智光秀と戦うことになります。山崎の戦いです。

兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興 4,000人、中川清秀 2,500人、織田信孝丹羽長秀・蜂屋頼隆ら 8,000人。ただし4万人だったという説もあります)。

対する明智軍は1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあります)。

兵数は秀吉軍が勝っていましたが天王山と淀川の狭い場所には両軍とも3千人程度しか展開できないため、合戦が長引けば明智軍には好都合にも思えました。
羽柴軍は寄せ集めの軍で統率に支障が出たり、周辺勢力が光秀に加勢することも予想されていたからです。また、羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近中川清秀などの現地で合流した諸勢力の活躍に期待するしかありませんでした。
羽柴軍にとって必ずしも有利な状況ではありませんでした。

結果、羽柴軍の勝利に終わりますが、勝敗の決し方についても諸説があり、はっきりとわかっていません。

同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったために自害。溝尾茂朝介錯させ、遺体を近くの竹薮の溝に隠したそうです。

光秀の首は発見した百姓により、村井清三を通じて信孝の元に届けられ、先ず本能寺にさらされました。その後、同月17日に捕まり斬首された斎藤利三とともに京都の粟田口(現在の京都市東山区左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれました(『兼見卿記』)。

太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓(槍)で腰骨を突き刺されました。その際、最後と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したといいます。

安土城で留守を守っていた明智秀満は同年14日に山崎での敗走の報告を受けて残兵とともに坂本城へ戻りました。しかし、多くの兵が逃亡しました。
やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡しました(『川角太閤記』)。

籠城戦も無理だと判断した秀満は、光秀と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害しました。


今日はここまで。